壁に向かって話し続ける

オタク女の備忘録

「見つめてくれるなら」の歌詞について

 

先日、加州清光単騎出陣が無事に幕を閉じ、新曲「見つめてくれるなら」が配信された。それについて書きたいと思うけどその前にいきなり補足。

刀ミュの曲にはラブソングが多くあるけど、それぞれのカンパニーごとに受ける印象はかなり違って、個人的には

阿津賀志→観客の中の特定の一人だけに向かって歌っている

幕末→史実での元主に向かって歌っている(蜂須賀は今のミュ本丸の主に向かってかなと思う)

三百年→大勢の観客たちに対して歌っている(ショーっぽさある)

といったイメージ。幕末は特にこの印象が顕著で、Dear youとかひとひらの風とかSignalizeとか、もうほとんどの曲が新撰組隊士への想いを歌っている気がしている。いや多分1部の影響だと思うんだけど。みほとせがショーっぽいのは、自分たちが消費されていることを彼らが自覚してる感あるからだと思う。

でもカンパニーに関わらず全体的にミュ曲はすげ〜〜エモくて、それは「永遠」が持つエモさだなと思う。過去わたしが好きだったコンテンツのエモ要素って、その一瞬だけの輝き、出会った以上必ず訪れる別れ、戻れない過去、みたいな「刹那」の持つエモさだったんだけど、刀剣乱舞は違うんだよね。

このエントリ読んでる方ならご存知だと思いますが、刀剣男士は刀剣の付喪神であって、とても長く存在している。もちろん刀身そのものが朽ちることは将来的にあると思うけど(実際三日月がそろそろ寿命らしい)、実体がこの世界から消えることによって付喪神も消えるというわけではない。ゲーム内でも現存しない刀の付喪神がたくさん実装されてるし。人に想われることがある限り彼らは消えない。

 

「描いていた未来へ」という阿津賀志2部の曲がある。わたしは最初聴いたときエモさに腰を抜かした。

描いていた未来へ 刀剣男士 team三条 with加州清光 歌詞情報 - 歌ネットモバイル

永劫の時を存在する刀剣男士が時代の流れを歌うの、めっちゃエモでしょ…………

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こういう、実際この世に存在する刀剣と、それに付随する付喪神という不確かな(ゲーム上の)存在とのリンクが刀剣乱舞のエモさだとわたしは思っている。加えてミュではそれを演じる生身の俳優の存在という要素が組み合わさって、実在×不在×実在かつ永遠×永遠×刹那、という図式を作り上げており、その精緻に織り上げられたエモさはオタクを感涙させるに十分すぎる。

 

 

はい。ここまでが前置きです。もう少しお付き合いください。

 

まず、見つめてくれるならの暫定歌詞を載せる。

 

見つめてくれるなら

 

君を知らない僕を感じて

重なり色めく影の波に 時折輝く君の瞳
言葉も交わさず 触れた指先 形失くして yeah
理屈も何も届かないのは 今まで見つめていた誰とも
まるで違うその your eyes ーflavor ーflavor

時が針を進めることを拒む
過去なんて構いはしない 繋ぎ止めたい

今この時を切り取ったみたいに 染められたのなら
どんな悲しみだって that's ready 超えられたのなら
君を知らない僕を感じて どこへも帰らないで
僕を知らない君でもいいよ 見つめてくれるなら

yeah oh

積み重なってくways so絡まり合ってるwhy
知らないフリなんてno way ずっと待っていたdo as play

答えも返さず ただ恋に引き寄せたい
許されるなら

時は誰のために流れこぼれる
明日なんて求めはしない
君だけ欲しい

今この時を上書きしたって 変えられないなら
例え永遠だってthat's ready 僕は待つのだろう
君を知らない僕はもういない どこにも行き場はない
僕を知らない君でもいいよ 求めてくれるなら

離れてしまえば 二度と会えないから
oh wait wait wait...

今この時を切り取ったみたいに 染められたのなら
どんな悲しみだって that's ready 超えられたのなら
君を知らない僕を感じて どこへも帰らないで
僕を知らない君でもいいよ 見つめてくれるなら

君を知らない僕を感じて
僕を知らない君でいいよ
君を知らない僕を感じて
僕を知らない君でいいよ

 

 

「僕」「君」がやけに多いな〜と思いませんでした?これらの代名詞が示しているのは誰か考えてみた。

①恋仲の誰か(この設定だと我々観客の中にいる誰か、つまり他本丸の審神者 現実的には観客≠審神者だろうけど、観客を主呼びするってそういうことだよね?)

②ミュ本丸の審神者

③元主である沖田総司

とここまで考えたところでちょっと重要すぎる、けど当たり前の事実に思い当たった。それとはつまり、加州清光と佐藤流司は別の存在だということ。

④佐藤流司さん←new!
⑤加州清光←new!

察しのいい方ならもうお分かりかと思います。つまりわたしが言いたいのは、この詞は加州清光から佐藤流司に対してのものだという可能性もあるということ。逆でも筋は通るけど、「僕」が加州で「君」が佐藤さんの方が自然かなと。

まあ普通に考えたら「君」が①なのは分かってる。恋ってワードがはっきり聞こえるし、「君」は客席にいるってことが示されてるし。「僕」を加州だと仮定すると、「君」は加州を知らないのでゲーム内の人物でもないし、加州と関わりのある歴史上の人物でもない。加州が現代の普通の女の子にこの曲を歌うの爆エモやん……

「僕」を佐藤さんだと仮定しても良さが深いんですよね……その場合は原作からミュに入った、俳優のこと知らない観客でもいいよ、という曲になる。

すごいよな、2.5。キャラと俳優という全く別の存在が同一になる瞬間がある。そういえば銀劇に来てたフラスタの宛名が「加州清光様」ってなってたのがグッときた。普通の舞台だったら役者の名前で来るじゃん?役者が演じたキャラが実在する刀剣男士としてライブをするっていう多重構造も、エモを織り上げている素材だなと思う。

 

 

というわけで、「見つめてくれるなら」詞の真の設定はどれだ!選手権でした。

今回はちょっとアレな内容だったから投稿するか迷った。今も迷ってる。佐藤さんをこういう形である種の搾取対象にするのは気が咎めるんだけど、まああっちもプロだし慣れっこだよな……なんならわたし役者っていう職業もエモだと思ってるし。演じている瞬間はこの世界から自分がいなくなるの、どういう気持ちなんだろうか。

刀ミュの詞はすごく好みなので、つはゆめでの新曲もめっちゃ期待してるし楽しみ。観てきたらレポ書きます。